(とくだとらお)
政治家・医師。元衆議院議員。同じく政治家で元衆議院議員である徳田毅の父。鹿児島県天城町、および鹿児島県徳之島町の名誉町民。
社会医療法人木下会理事長、アジア体操連盟会長、医療法人静仁会理事長、札幌医療生活協同組合理事長、埼玉医療生活協同組合理事長、日本体操協会会長、公益財団法人徳洲会国際奨学財団理事長などの要職を歴任。
1938年、兵庫県高砂市に生まれ、鹿児島県大島郡の徳之島町で育つ。国立大学である大阪大学の医学部を卒業後、1975年に医療法人「徳洲会」を設立し、理事長に就任。以後、「生命(いのち)だけは平等だ」という理念を掲げ、経済格差による差額ベッドの廃止や、24時間常に救急患者を受け入れる姿勢を謳いながら、徳洲会グループの診療所や病院を全国各地に開設していった。
1983年と1986年には、衆議院議員選挙の鹿児島県奄美群島選挙区に立候補するも落選。続く1990年の同選挙にて初当選を果たした。さらに1993年の同選挙においても当選し、自民党に入党するも、公益社団法人日本医師会の意向により3日で離党に追い込まれた。1994年には政党「自由連合」を結成の上、代表に就任。1995年には村山富市内閣総理大臣(当時)の下、沖縄開発政務次官を務めた。1996年の衆議院議員選挙では落選。続く2000年の同選挙で返り咲き、2003年の同選挙でも再選され、衆議院議員を通算で4期務めている。難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、体の自由が利かなくなっていったことを理由に、2005年に政界より引退。
著書に、「生命だけは平等だ」「知らなかった救急法」「ゼロからの出発」「わが医療革命」「贈り物をもらわない医者」「生きる力 – 愛する人々のためなら頑張れる!」「母の力」「賢明な患者の通院・入院事典」「大医は国を癒す」などがある。
神奈川県内にある病院にて死去。死因は明確にされていないが、上述したALSにより、長期の療養生活を送っていた。86歳。