山本功児

(やまもとこうじ)
元プロ野球選手(外野手・一塁手)・監督・コーチ。元プロ野球選手である山本武白志(やまもとむさし)の父。選手時代は、読売ジャイアンツ(巨人)やロッテオリオンズで活動し、いぶし銀の活躍を見せた。

大阪府堺市に生まれ、三田学園高等学校時代から春の選抜高校野球などで活躍。卒業時にはドラフト会議にて野村克也/2020/02/11/野村克也/監督擁する南海ホークスから3位指名を受けたものの、入団を拒否して法政大学に進学。東京六大学野球リーグ通算で86試合に出場、282打数79安打、3本塁打、44打点、打率2割8分0厘の成績を残し、日米大学野球選手権大会における日本代表にも複数年に渡って選出された。大学卒業後は、新日鉄名古屋などのチームにおいて社会人野球リーグで活躍、1975年に読売ジャイアンツよりドラフト会議にて5位指名を受けてプロ入りした。

プロ入り後は、1年目となる1976年から1軍に帯同するも、これまで主に守ってきた一塁手には世界のホームラン王である王貞治が君臨していたため、外野手としての出場が多かった。ほどなくして4番打者も務めるなど活躍したものの、1984年に交換トレードでロッテオリオンズに移籍。一塁手としてダイヤモンドグラブ賞を受賞するなど存在感を示したが、落合博満や愛甲猛らの台頭もあって1988年限りで引退した。以後は、ロッテオリオンズ(のちに千葉ロッテマリーンズ)や読売ジャイアンツで監督・コーチを務めた。

プロ通算成績は、1976年から1988年までの実働13年間において1,217試合に出場、2,523打数699安打、64本塁打、打点369、盗塁13、打率2割7分7厘。1984年と1985年の2度に渡り、ダイヤモンドグラブ賞(のちにゴールデングラブ賞に改称)を獲得している。

また、監督としてはロッテオリオンズにて1999年から2003年までの実働5年間で、690試合で指揮を執り、324勝352敗14引き分け、勝率4割7分9厘。5年間すべてにおいてBクラスだった。

福岡県北九州市にある自宅にて死去。死因は、肝臓癌であった。64歳。

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