テレサ・テンさんのヒット曲名がつけられた当ページですが、究極の話として、まさに、人間は「時の流れに身をまかせるしかない」という内容です。
「この世で最も残酷なものは何だと思いますか?」
この問いに、あなたはどう答えるでしょうか。年齢や立場、生き様や現在の環境、あらゆる要素がその答えに影響を与え、千差万別の内容となりそうです。もちろん、この問いに明確な正解などありません。
答えの候補として1つあるのは、時の流れです。時間の経過によって、人は老化し、やがて死を迎えます。否、そもそもそれ以前に、悲しい別れや、悲惨な出来事、病気などの苦しみ・・・すべて時間が引き起こすものだとは考えられないでしょうか。
一方で、時間は様々な悩みやネガティブな感情も解消してくれます。時が経つにつれて人間の記憶は薄れ、辛い経験は過去のものとなり、深い傷を負った心も癒えてくるものだからです。その意味では、一見、残酷とは正反対にあるようにも思えますが、いずれにせよ、時の流れは、万人の感情や万物の状況を変えてしまう、誰にとっても無関係ではいられない非常に厄介な概念です。
人はなぜ死ぬのか
この見出しも根本的な問いですが、人の死というのは、つまるところすべての原因は時の流れにあります。時間さえ経過しなければ、人は病気になることも、事故に遭うことも、他人から殺されることもないからです。
病気や事故や殺人が起こらなくとも、時が経てば人間は必ず死を迎えます。人間の体を構成する細胞は、実は人間の寿命である80年前後(2020年のデータで、日本人における平均寿命は84.62歳)よりも極めて短い期間しか生きられないからです。そのため、人が生きている限り、古い細胞はどんどん死んで、次々と新しい細胞に生まれ変わりますが、歳を取るとこの新しい細胞を生み出す力が弱くなり、出来の悪い細胞が増えていきます。これがいわゆる、老化です。
不老不死はあり得ない?
実は老化現象の理由、言い換えれば、なぜ歳を取ると新しい細胞を生み出す力が弱くなるのかは、はっきりと解明されていない部分も多いそうです。というより、もしこれが完全に解明される日が来るとしたら、それはいわゆる不老不死が現実のものとなることを意味するのではないでしょうか。
そもそも、人間を始めとする生物が生物である限り、すなわち生きるという概念がこの世に存在する限り、不老不死というものは現実には起こり得ないとする意見もあるようです。それは万物を創り出した神がお怒りになるとか、どれだけ技術が進化しても自然に反することは出来ないとか、神学がどうとか宗教的に何がしとか倫理が云々とか、そういう意味合いでは決してなく、根本的に生物は死ぬから生物なのであって、不老不死が現実のものとなった瞬間に生きるとか死ぬとかいう概念が消滅するからなんだと考えます。つまりそれは、水だとか空気だとかコンクリートだとか、はたまた土だとかダイヤモンドだとかプラスチックだとか、そういう「モノ」と人間との、否、地球上のすべての生物との、境界が失われることを意味する訳です。
それにもかかわらず、不老不死となって永遠の命を手に入れることが、まるで人類の究極の望みであるかのように言われることがあります。歴史上の人物の中にも、不老不死の薬の存在を信じ、さまざまな策を講じてそれを手に入れようとした者も多いそうです。つまり、人類は何百年、いや、何千年とそれを追い求め続けながら、未だにそれを実現できていないのです。その理由はたった1つ、不老不死が現実には起こり得ないからである、と言われれば、そうなのかもしれないという気持ちにもなります。
ちなみに、不老不死を実現している生物としてメディアなどで「ベニクラゲ」が取り上げられることがありますが、それはそれでとても夢のある神秘的な話で、全く否定するつもりはありません。とはいえ、結局はベニクラゲも自らの細胞から分身を生み出しているだけに過ぎず、他の生物が子どもを産み、それが育っていくのと大きな違いはないような気もします。この話はまた別の機会にでも・・・。
良い人生は質と密度によって決まる
不老不死が起こり得ないものとして、そういう世界において私たちはどのように生き、どのように死んでいけばいいのでしょうか。それはもう、この世で最も残酷とも言える時の流れに、身をまかせるしかありません。朝、無事に目が覚めたことに感謝しながら、その日一日を懸命に、しっかりと生きていくしかないのです。人間にとって、死ぬ時に「良い人生だった」と思えることが一番の幸せであるとはよく言われることですが、それは決して長生きを意味する訳ではありません。長さではなく、人生の質と密度、これが大切なのだと考えます。
亡くなった有名人の方の人生を拝見すると、まさに波乱万丈という言葉がぴったりのケースがあります。ただ、それがそのまま、その方が不幸せだったことを意味する訳ではないのです。波乱万丈と言われる数々の出来事が、本人が何を考え、どのように生きた結果なのか、そこが重要なのであって、答えは本人のみぞ知る、ということになるのでしょう。