工藤幹夫

(くどうみきお)
元プロ野球選手(投手・内野手)。日本ハムで主に投手として活躍した。

秋田県本荘市(現在の由利本荘市)に生まれ、中学校時代からチームが軟式野球の東北大会で優勝するなど、頭角を現し始める。なお、このときのチームメイトには、政治家で衆議院議員を務める村岡敏英がいた。

秋田県立本荘高等学校に進学後、野球部に所属、エースとして活躍するも、甲子園出場経験はなし。しかしながら県予選大会での活躍からいくつかのプロ球団が注目しており、1978年のドラフト会議で日本ハムファイターズより指名(2位)を受けてプロ野球選手となる。

1年目となる1979年から1軍での登板を経験するも、翌1980年は1軍登板なし。さらに翌年の1981年も2勝に終わるなど、なかなか結果が出せずに苦しんだが、4年目となる1982年に大きく開花。28試合に登板(うち24試合に先発)し、20勝4敗、防御率2.10の好成績を残し、最多勝および最高勝率を獲得、さらにはベストナインにも輝いた。ところが、この年の9月に利き腕である右手の小指を骨折し、これが後遺症となって伸び悩むことになってしまう。翌1983年には8勝を挙げたものの、以降は勝ち星に恵まれず、1988年に内野手に転向するも、同年にて現役を引退した。

現役引退後は地元である秋田にて、「クドウスポーツ」というスポーツ店を経営する傍ら、「由利本荘ベースボールクラブ」(社会人野球チーム)の投手および監督などを務めた。

1979年から1988年のプロ生活で、投手としての実質稼働は5年(1979年、1981~1984年)。通算成績は、78試合に登板(うち56試合に先発)、30勝22敗0セーブ、奪三振160、防御率3.74だった。

獲得した栄誉やタイトルには、上述した最多勝・最高勝率・ベストナイン(1982年)のほか、月間最優秀選手(MVP)2回(1982年6月および7月)、後楽園最優秀選手(MVP)賞1回(1982年)、パシフィックリーグ・プレイオフ敢闘賞1回(1982年)、オールスター戦出場1回(1982年)など。

死因は、肝不全であった。55歳。

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