大下弘

(おおしたひろし)
元プロ野球選手(外野手)・監督・評論家・解説者。「青バットの大下」としてファンの間で親しまれ、第二次世界大戦後の混乱期における日本のプロ野球界を代表する存在であった。当時は、芸能の分野でトップクラスの人気を誇った歌手の美空ひばりとともに、国民的なスターとして君臨した。

兵庫県神戸市生まれ。学生時代は抜群の運動神経を活かし、野球以外に水泳・柔道・陸上競技などの大会にも出場して活躍していた。その後、明治大学を経て、職業野球の新設球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズの前身)に入団。その後、球団は「東急フライヤーズ」、さらには「急映フライヤーズ」と改名する中、変わらず中心選手として活躍した。1959年のシーズンをもって現役を引退。

通算成績は、14年間(1946~1959年)の稼働で1,547試合に出場、5,500打数1,667安打、201本塁打、146盗塁、打率3割0分3厘。獲得した主なタイトルには、首位打者3回、本塁打王3回、最多安打1回、最多出塁数2回。そのほか、ベストナイン8回、最高殊勲選手(MVP)1回、日本シリーズMVP1回、オールスターゲームMVP1回、など。

著書に、「プロ野球選手の真似をするな」「父と子の少年野球教室」「大下弘日記 – 球道徒然草」などがある。

死因は、大量の睡眠薬服用による自殺であった。56歳。当初、死因は「脳血栓の後遺症による心筋梗塞」とされていたが、のちに発刊された当人の伝記(「青バットのポンちゃん大下弘」(桑原稲敏、1989年)や「大下弘・虹の生涯」(辺見じゅん、1992年))により、自殺であったことが明らかとなった。晩年は脳血栓と診断され、麻痺などの後遺症から手足が不自由となって自宅療養していたという。

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