田中聖二

(たなかせいじ)
プロボクサー。日本スーパーフライ級王者。(第29代)。元東洋太平洋ジュニアミドル級王者の金沢英雄によって大阪府八尾市に設立された金沢ボクシングジムに所属。

鳥取県鳥取市に生まれ、鳥取城北高等学校を卒業後、プロボクサーを目指して大阪に移住。金沢ボクシングジムに入門した。プロデビューは1997年。8戦目に第26代日本ライトフライ級チャンピオンとなる興梠貴之に判定で敗れるまで、7戦で6勝1分けという順調な滑り出しを見せた。その後は連敗したのちに連勝するなど好不調の波を経験しながら着々とキャリアを積む。

2001年に、OPBF(東洋太平洋ボクシング連盟)の東洋太平洋フライ級チャンピオンに挑戦するも小松則幸に判定で敗れる。2002年にはWBCインターナショナルスーパーフライ級チャンピオンであったジェリー・ペニャロサに挑戦するが、TKO負けを喫する。2004年、日本スーパーフライ級チャンピオンであった有永政幸に判定勝ちし、ようやく王座を手にした。2005年4月に行われた初防衛戦では、世界ランカーであった名城信男と対戦、10回TKOで惜しくも敗れた。

プロ通算成績は、26試合を戦い、16勝(うち4KO)7敗3引き分け。没後、関西MIB賞(特別賞)、並びにプロ・アマチュア年間表彰選手選考会特別賞を受賞した。

死因は、急性硬膜下血腫であった。28歳。上述した日本スーパーフライ級タイトルマッチ(王座防衛戦)の終了後、控室で頭痛を訴えて意識不明となり、病院に緊急搬送された。開頭手術の末、一時は安定するも、12日後に再び容態が悪化、息を引き取ったという。対戦相手だった名城信男は大阪市内の同じジムにて合同練習をするなどの仲であったが、田中の死去によってショックを受け、1ヵ月ほど引きこもり生活を送った。その後、父親の励ましもあって立ち直り、奮起してWBA世界スーパーフライ級王座を獲得。田中の墓前へ報告に赴いたという。

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