星野仙一

(ほしのせんいち)
元プロ野球選手(投手)・監督・解説者。選手として活躍後、中日ドラゴンズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務め、東北楽天ゴールデンイーグルスでは日本一にも導いた。また、2008年の北京オリンピックでも野球日本代表の監督を務めるなど、球界を代表する熱血指導型の監督として有名。晩年は、東北楽天ゴールデンイーグルス(株式会社楽天野球団)の取締役副会長も務めていた。

岡山県児島郡(現在の倉敷市)に生まれ、岡山県立倉敷商業高等学校にて野球部に所属。エースとして活躍するも、全国大会(甲子園)への出場は叶わなかった。卒業後は明治大学へ進学、野球部にてやはりエースとして活躍し、2年生時には立教大学を相手にノーヒット・ノーランを達成するなどの記録を残した。

1968年のドラフト会議にて、中日ドラゴンズより1位指名を受けて入団。1年目より8勝を挙げるなど活躍し、1973年から1977年までは5年連続で10勝以上の勝ち星を挙げた。特に1977年は、自己最多となる18勝を記録、防御率も3.53とリーグ4位だった。

1982年のシーズンを最後に現役を引退。1969年から1982年までのプロ通算成績は、稼働14年間で500試合に登板、146勝121敗34セーブ、奪三振1,225、防御率3.60だった。

選手時代の主な獲得タイトルには、最多セーブ1回(1974年)、沢村栄治賞1回(1974年)、最高勝率1回(1975年)、月間最優秀選手(MVP)2回(1975年9月および1977年8月)などがある。

現役引退後は1986年までNHK(日本放送協会)において野球解説者を務め、さらには日刊スポーツやNumberなどの新聞・雑誌で野球評論家としても活動した。1986年10月に途中休養となった前監督である山内一弘の後を受けて中日ドラゴンズの監督に就任。以後、先述の通り、阪神タイガース、北京オリンピック日本代表、東北楽天ゴールデンイーグルスでも監督を務めた。

中日・阪神・楽天における監督としての通算成績は、1987年から2014年までのうち、実質稼働17年間で2,277試合を指揮、1,181勝1,043敗53引き分け、勝率5割3分1厘。Aクラス10回、Bクラス7回だった。

監督としての主な栄誉や表彰には、正力松太郎賞、パシフィック・リーグ最優秀監督賞、朝日スポーツ賞、報知プロスポーツ大賞(特別功労賞)、ビッグスポーツ賞(特別功労賞)、毎日スポーツ人賞(感動賞)などがある。また、2017年には、野球殿堂顕彰者に選出され、エキスパート部門にて野球殿堂入りした。

野球関連以外の栄誉や表彰には、ベストドレッサー賞、日本メガネベストドレッサー賞、ベスト・ファーザー賞、倉敷市市民栄誉賞、倉敷市文化章、倉敷市スポーツ特別功労章、岡山県スポーツ特別顕賞などがある。

著書(共著・編著を含む)に、「星野仙一のすばらしき野球野郎」「星野仙一の巨人軍と面白く戦う本」「星野仙一のインターネット熱闘譜」「燃えて勝つ」「勝利への道」「迷ったときは、前に出ろ!」「夢 – 命を懸けたV達成への647日」「野球スペシャル」「やるだけやったら、それでいい。」「シンプル・リーダー論」「星野流」「人を動かす人を活かす」「選手たちよくやった!」「こころのキャッチボール」「闘将・星野」などがある。

そのほか、主に野球解説者・評論家として、各局のプロ野球中継を始め、「サンデードラゴンズ」「サンデースポーツスペシャル」「NHK人間講座」「NHKスペシャル」「明石家ジャパン」「徹子の部屋」「SMAP × SMAP」「カンブリア宮殿」「ボクらの時代」など、数多くのテレビ番組にも出演した。2003年末に開催された毎年恒例の大規模歌番組「NHK紅白歌合戦」には、審査員として招待もされている。

ラジオ番組では、「星野仙一の熱血・仙一夜」「ドラ魂KING」など。

日本航空、大和證券、郵政省(現在の日本郵便)、キリンビバレッジ、イオン、フィリップス、ハウス食品、松下電器(現在のパナソニック)、公共広告機構(現在のACジャパン)など、数々の著名企業や著名ブランドのテレビCMでも活躍した。

死因は、膵臓癌であった。70歳。1年半ほど前に急性膵炎を患い、その際の検査にて膵臓癌が発覚。抗癌剤治療を受けるなど以後闘病生活を送っていたものの、積極的に仕事を継続していた。また、本人の意向で病気であることが公にされることもなかったため、一部の関係者以外には突然の訃報となった。

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