松山恵子

(まつやまけいこ)
歌手(演歌)。裾幅の広いドレススカートを纏い、「お恵ちゃん」(おけいちゃん)と呼ばれてお茶の間の人気者だった。初期の僅かな期間は「岡崎景子」名義で活動していた。

幼少時代から歌に親しみ、「日本コロムビア全国歌謡コンクール」10位入賞、「日本マーキュリーレコード全国歌謡コンクール」優勝などの実績を引っ提げて、1954年に「雪州音頭」を「岡崎景子」名義で発売。実質デビューは、「松山恵子」と改名して発売された、次のシングル「マドロス娘/宵待ワルツ」であるとされる。

1956年には「十九の浮草」が大ヒットを記録し、トップレベルの人気を博すようになった。NHKの年末恒例行事、「紅白歌合戦」にも8度の出場歴を誇る(1957~1963年の7年連続、及び1989年)。その他、「年忘れにっぽんの歌」「昭和歌謡大全集」「思い出のメロディー」「BS日本のうた」「NHK歌謡コンサート」など、数々の歌番組に出演するなどの活躍を見せた。1958年の日活映画「未練の波止場」にて、銀幕デビューも果たしている。

上述した「雪州音頭」「マドロス娘/宵待ワルツ」「十九の浮草」以外の発表シングルは、「ユンタ恋しや/私妬けるわよ」「涙の捨小舟/お座敷どんぱぱ」「街の船乗り/夢見る花園」「嘘は云わぬよ/アンコ追分」「チャイナのナツメ売り/北海の霧笛」「マドロス祭り/鈴鹿追分」「おばこ十七/母を頼んだぜ」「未練の波止場/湯の町こけし」「鴎さんこんにちは!/燈台恋しや」「さよなら鷗/だから言ったじゃないの」「バックNO.1050/ねぇどうすりゃいいの」「未練のなみだ雨/メノコ月夜」「鳴門ちどり」「つんつん娘/乙女舟唄」「マドロス次郎ちゃん/山彦船頭さん」「やっぱり涙に負けちゃった/港のお世辞」「お別れ公衆電話/ひとりぽっちの三等車」「あんた勘弁ね/地下駐車場」「ドラが鳴るまで出船まで/諦めちゃったのさ」「お迎え波止場/一番纒だ」「男って冷たいなあ/木曽路の雨」「あんた男でしょ/月夜の貝がら」「エリカの咲く岬/湯の町ブルース」「浪曲月夜鳥/エンヤコラ恋歌」「口笛を吹く女/嘘ついちゃ駄目よ」「ひなげし小唄/船員手帳」「惚れちゃっちゃ愛しちゃっちゃ/くぼたさん」「この恋ひとつ/恋のよさこい橋」「ラブ・ラブ小唄/三号室の鍵」など、数え切れぬほどの膨大な量に上る。

病院にて死去。死因は、肝臓癌であった。69歳。2006年2月のテレビ放送にて、1996年より10年に渡って肝臓癌に対する闘病生活を続けていることを公表。直後に入院していた。また、40年近く前の1969年には、瀕死の重傷を伴う交通事故に遭い、治療の際の輸血が原因で、亡くなるまで肝炎を患っていたという。

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