フランツ・ベッケンバウアー

元サッカー選手・指導者(ドイツ)。ポジションはDF(ディフェンダー)。見事なプレイで観客を魅了した20世紀を代表するサッカー選手。全スポーツを通じても偉大なアスリートの1人と見なされている。ドイツ連邦共和国功労勲章(功労十字小綬章、一等功労十字章、大功労十字章)を始め、ノルトライン=ヴェストファーレン州功労勲章、ニーダーザクセン州一等功労勲章、バイエルン州功労勲章など、数々の勲章の受章者でもある。

西ドイツ代表では主将(キャプテン)としてチームを牽引。1966年のFIFAワールドカップ(W杯)・イングランド大会ではDFながら5得点を挙げ、チームを準優勝に導いた。続く1970年のメキシコ大会では3位となったものの、地元ドイツで開催された1974年の大会では見事、優勝に輝いた。

DFながら積極的に攻撃参加するスイーパーとして「リベロ」と呼ばれるポジションを確立し、高い得点力・決定力を持つゲームメーカーであることが最大の特徴。エレガントで冷静沈着、気品に満ち溢れるピッチ上の姿は、「皇帝」(ドイツ語でKaiser:カイザー)と呼ばれ、当時最強と言われていた西ドイツ代表の中心的存在だった。

一方、クラブチームでは、ドイツ・プロサッカーリーグにおけるトップディビジョンのブンデスリーガに在籍する「バイエルン・ミュンヘン」で長きに渡って中核として活躍。1966~1967年シーズンにおけるUEFAウィナーズカップ優勝を始め、1968~1969年シーズンではブンデスリーガでの初優勝に貢献。また、1973~1974年シーズンにUEFAチャンピオンズカップ(現・UCL、UEFAチャンピオンズリーグ)を制したのを皮切りに、翌シーズン・翌々シーズンも制覇し、3連覇を達成。1976年には、欧州サッカー連盟(UEFA)および南米サッカー連盟(CONMEBOL)が主催するクラブチーム世界一決定戦「インターコンチネンタルカップ」でも優勝を果たした。この間、バロンドール(世界年間最優秀選手)に2度(1972年・1976年)、ドイツの年間最優秀サッカー選手賞に4度(1966年・1968年・1974年・1976年)輝いた。

西ドイツ代表としての個人成績は、1965~1977年の13年間で、国際大会・親善試合を合わせて103試合に出場、14得点。クラブチームでの個人成績は、1963~1983年の21年間で、リーグ戦・カップ戦などを合わせて743試合に出場、97得点。

1983年に現役を引退、以降は指導者として手腕を発揮。1984年に西ドイツ代表監督に就任すると、1990年のFIFAワールドカップ・イタリア大会で強豪アルゼンチンとの死闘を始めとする数々の接戦をものにし、見事に優勝。選手・監督の双方でワールドカップを制した2人目の人物となった(1人目はブラジル代表のフォワードとして活躍したマリオ・ザガロだった。奇しくも、ベッケンバウアーが亡くなる僅か2日前に亡くなっている)。

また、バイエルン・ミュンヘンの副会長・会長・名誉会長、ドイツサッカー連盟副会長、2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会組織委員長などの要職を歴任。特に、2006年のワールドカップ・ドイツ大会については、世界的な知名度を活かしながら、見事に招致を成功させたことでさらに評価を高めた。

死因などの詳細は不明。78歳。死去の事実は、遺族がドイツの各メディアに対して公表したことをきっかけに、一世に報じられた。近年は、心臓病による手術を受けたり、認知症に伴うパーキンソン病を患ったりと、健康問題に悩まされていたという現地メディアの情報もある。

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