高原永伍

(たかはらえいご)
元競輪選手・競輪指導者・選手養成者。日本競輪選手養成所名誉教諭。

神奈川県川崎市川崎区に生まれ、1959年、日本競輪学校(通称:NKG。現名称は日本競輪選手養成所、通称:JIK)に第13期生として入学。なお、高原家は、のちに兄弟全員が競輪選手になるという競輪一家である。

日本競輪学校を卒業後、福岡県北九州市にかつて存在した門司競輪場で開催された新人戦にて1959年6月にデビューを果たすと、翌日には初勝利をあげた。その後、1963年のオールスター競輪の特別競輪(現在のGI競走)で初優勝を果たし、同年6月に開催されたGI競走の高松宮杯競輪でも優勝。同年末の朝日新聞社杯競輪祭では新人王とともに競輪王のタイトルも獲得。競輪選手として初となる年間獲得賞金1,000万円突破という快挙を成し遂げ、賞金王にも輝いた。

その後も大きなレースを次々と制し、翌1964年までに通算7つものタイトルを獲得、競輪業界において一世を風靡した。出場するレースは誰もが1着になると確信していたのではないかと思われるほどで、当人が2着以降になった場合の配当がすべて万車券になってしまうという突飛な現象まで発生した(通称:高原オッズ)。「逃げの神様」と称えられるほどの先行逃げ切りの一貫したスタイルで数多くのファンから人気を集めたほか、同期の平間誠記(1968年没)とは互いに激しい敵対心を燃やし、熾烈な争いを繰り広げたことでも知られている。

1989年に最下級クラスだったB級に転落したものの1994年まで現役生活を続け、通算2,679戦で941勝という輝かしい成績を残して引退した。上述したオールスター競輪や高松宮杯競輪のほか、全国都道府県選抜競輪(1964年・1966年)、秩父宮妃賜杯競輪(1968年)なども制している。賞金王獲得は2回(1963年・1969年)、年間最高勝率は1965年の8割0分2厘(81戦65勝)。

引退後は指導者として、日本競輪選手養成所(旧・日本競輪学校)にて名誉教諭(名誉教官)などを務め、元競輪選手が所属するOB会組織の1つである一般社団法人日本名輪会(通称:名輪会)においても中心的存在であった。2007年には、スポーツの振興に多大な貢献を果たした人物として、文部科学省よりスポーツ功労者顕彰を受けた。

静岡県三島市にある病院にて死去。死因は、脳梗塞であった。84歳。

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