ホワイティ・ハーゾグ

元野球選手・コーチ・監督・GM(ゼネラルマネージャー)・ディレクター(アメリカ)。アメリカ合衆国のプロ野球リーグであるMLB(メジャーリーグ)においてセントルイス・カージナルスで監督を務めていた際、卓越した采配で同チームをワールドチャンピオンに導いたことで知られ、名監督として名を馳せた。

1931年、アメリカ合衆国中西部イリノイ州にあるニューアセンズ生まれ。高校卒業後、ニューヨーク・ヤンキースに入団し、プロ野球選手としての道を歩み始める。同チームではマイナー生活が続いたが、1956年にワシントン・セネターズ(現在のミネソタ・ツインズ)に移籍してメジャーに昇格。その後、カンザスシティ・アスレチックス、ボルチモア・オリオールズ、デトロイト・タイガースと渡り歩き、1963年シーズンを最後に現役を引退した。

選手としての通算成績は、1956~1963年の稼働8年で634試合に出場、1,614打数414安打、ホームラン25本、盗塁13、打率2割5分7厘。

現役引退後はカンザスシティ・アスレチックスでスカウトやコーチを務めたあと、1973年にテキサス・レンジャーズの監督に就任。47勝91敗の成績でシーズン終了を待たずに解雇された。その後、カリフォルニア・エンゼルスのコーチを経て1975年のシーズン途中よりカンザスシティ・ロイヤルズの監督に就任。66試合で41勝25敗の成績を残し、翌年からはア・リーグ西地区で3連覇を果たすなど、チームに勢いをつけた。1980年からはセントルイス・カージナルスの監督兼ゼネラルマネージャーに就任。パワーではなくスピードとコンタクトヒッティング、守備を重視したチームビルディングは「ホワイティ・ボール」と呼ばれ、1982年に92勝でナ・リーグ東地区優勝、ワールドシリーズでもミルウォーキー・ブルワーズを破って15年ぶりのワールドチャンピオンを達成。1985年と1987年にも世界一にあと一歩のところまで到達するなど、1980年代のメジャーリーグを席巻した。1990年シーズン途中にて、セントルイス・カージナルスの監督を退任。以後、1993年・1994年とカリフォルニア・エンゼルスのゼネラルマネージャーを務めたほか、2010年にはアメリカ野球殿堂入りを果たした。

監督としての通算成績は、1973~1990年の稼働18年で2,409試合で指揮を執り、1,281勝1,125敗、勝率5割3分2厘。ワールドシリーズ優勝1回、リーグ優勝2回。

死因などの詳細は不明。92歳。死去の事実は、セントルイス・カージナルスより発表された。

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