猫田勝敏

(ねこだかつとし)
元バレーボール選手。1964年の東京オリンピックから、1976年のカナダ・モントリオールオリンピックまで、日本バレーの男子選手として最多となる4大会連続出場を果たした人物として有名。

1964年の東京オリンピックでは銅メダルに終わったが、次のメキシコシティーオリンピック(1968年)では銀メダル、さらに次のミュンヘンオリンピック(1972年)ではついに金メダルを獲得し、色の違うすべてのメダルを獲得。日本のバレーボール黄金時代を築いた。正確無比なトスがコンピュータに例えられ「日本のコンピュータ猫田」と称されたほか、日本をメダル獲得に導いた活躍を評価され「世界一のセッター」とも呼ばれた。

広島県安佐郡(現在の広島市安佐南区)出身。バレーボールが盛んな土地柄と両親の影響を受けて小学校時代からバレーボールを始め、安佐中学校・崇徳高校とバレーボール部に所属。崇徳高校の1年生時には国体高校男子(国民体育大会バレーボール競技)にて優勝するなど、早くも頭角を現した。

高校卒業後は特殊法人である日本専売公社(のちに事業を日本たばこ産業株式会社(JT)に移行)に入社、専売広島男子排球部(現在のJTサンダーズ)にて活躍。全日本代表にも選出されるようになる。初選出は高校を卒業してすぐの1962年、実に18歳という若さだった。

その後は上述の通り4大会連続オリンピック出場などの快挙を成し遂げ、日本男子バレーボール界発展の立役者となった。1980年のモスクワオリンピックへの出場権を日本代表が逃したこともあり、同年に現役を引退した。

著書に、「直伝・猫田勝敏の名人芸トス」などがある。

受賞歴に、日本バレーボール協会による「バレーボール栄誉選手賞」や、国際バレーボール連盟による「世界バレーボール20世紀の最優秀賞特別賞」などがある。

死因は、胃癌であった。39歳。亡くなる2年ほど前に胃癌であることが発覚し、摘出手術後も入退院を繰り返していたという。没後40年となる2023年、バレーボール殿堂入り。

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