野島稔

(のじまみのる)
ピアニスト・東京音楽大学学長。日本の代表的な国際的ピアニストの1人。各種コンクールの審査員・審査員長や、桐朋学園大学院大学教授などの要職も数多く歴任。

ピアノを始めたのは3歳のとき。以後、桐朋高校・桐朋大学と一貫して井口愛子に師事し、1963年の高校3年時には、若手音楽家の登竜門として知られ、NHK(日本放送協会)・毎日新聞社が共催する伝統と権威あるクラシック音楽コンクール「日本音楽コンクール」にて第1位(大賞)を獲得。一気に頭角を現した。

1966年からは、世界三大音楽院の1つ、モスクワ音楽院に招かれ、ソビエト連邦(現・ロシア)の著名なピアニストであるレフ・オボーリンにも師事することとなる。以後、1968年に海外派遣コンクール優勝、1969年にヴァン・クライヴァーン国際ピアノコンクール第2位入賞、そしてついに1970年には、アメリカ・ニューヨークのマンハッタンにあるカーネギー・ホールにてデビューリサイタルを催行、大成功を収め、各種メディアにて高い評価を得た。アメリカでは、クライバーン国際ピアノコンクールライブにおける予選会にて、その演奏から「ピアニストの中のピアニスト」と呼ばれたこともある。

以後、主に東京とニューヨークを拠点としながら、アジア・ヨーロッパ・アメリカなどの海外各地でオーケストラとの共演やリサイタルを実施。また、日本においても東京交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、NHK交響楽団など、著名なオーケストラと数え切れないほどの共演歴がある。

1994年に東京都港区赤坂のサントリーホールで開催されたリサイタル「野島稔・プレイズ・ラヴェル」では、「円熟の極致」「奇跡的なテクニック」「希代の最高級演奏」といった数々の高評価を得た。後年は、各種コンクールの審査員長などを積極的に務め、後進の育成にも尽力した。

REFERENCE RECORDINGよりリリースされた2枚のアルバム「ノジマ・プレイズ・リスト」及び「ノジマ・プレイズ・ラヴェル」は、圧倒的な超絶技巧と表現力が話題となり、各種業界誌より「世界最高レベルの演奏」「紛れもない傑作」といった評価を受けた。海外でも絶賛され、国際的ピアニストとしての名声を決定付けるものとなった。

上述したもの以外にも、有馬賞(1992年)や日本芸術院賞(2014年)など、受賞歴多数。

病院にて死去。死因は、肺癌であった。76歳。

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